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サラディン

アイユーブ朝の創始者

サラディン

大将軍アラビア1137~1193

アイユーブ朝の創始者であり、イスラム軍勢を率いて第3回十字軍に対抗した指導者。本名は、サラーフッディーン・ユースフ・ブン・アイユーブ・ブン・シャージー。優れた指導力や戦術能力でエルサレムを占領し、十字軍からもエルサレムを守り抜くことに成功した。 戦略センス、人格、外交力など、多方面で優れた能力を発揮したため、ヨーロッパでも英明寛容な君主として称えられた。

目次

civ6シヴィロペディアより

歴史的背景

サラーフ・アッディーン・ユースフ・ブン・アイユーブ
(数多くいた敵にはサラディンとして知られた) は、エジプトとシリアのスルタンとしてはじめてアラブ人によるジハード (聖戦) を率いたクルド人貴族である。西暦1138年頃にティクリートで生まれ、名はユースフと言った。尊称の「サラーフ・アッディーン」は、おおまかに訳せば「信仰の正義」となる。正義のサラディンは、ティクリートの砦の元長官だった父ナジム・アッディーン・アイユーブから軍事、宗教の教育を受けた。アイユーブ家は争いに巻き込まれてティクリートから追放され (サラディンが生まれた夜に出ていったと考えられている)、1139年にモースルに移った。

ユースフ少年は非常に利発で、父がモースル、ダマスカス、アレッポ、ハマーのアタベク (おおまかに言えば「統治者」) だったイマードゥッディーン・ザンギーからバールベックの砦の長官に任命されたため、ダマスカスで教育を受けつづけた (サラディンはダマスカスへ特別な愛着を育んだ)。サラディンは特に算術と数学に秀で、エウクレイデスの著作やアルマゲストに没頭した。彼はアラブの貴族の系譜と歴史だけでなく、有名なアラブ種の馬の血統までそらんじることができた (後者はおそらく前者よりも役に立たなかったろうが)。また10巻からなるアラブの詩集『ハマーサ』も詳細に暗唱できた。しかし、当然のごとくサラディンは一族の期待どおり軍事的な職業に就くことになる。彼に軍人としての期待をかけた者の中には、シリアの王族としてイマードを継ぎ、セルジューク朝に仕えた母方の祖父、ヌールッディーンもいた。

サラディンの軍人としての経歴は26歳の時にはじまる。彼はヌールッディーンに仕えた有力な将軍である叔父アサド・アッディーン・シール・クーフの後ろ盾を得ていた。十字軍と、ファーティマ朝のカリフであるアル・アーディドの命でエジプトの王位を簒奪したディルガームに対する戦いにおいて、サラディンはビルバイスへの襲撃とギザの西、ナイル川の近くで行われた戦闘で右翼を率いて頭角を現した。アレキサンドリアへ侵攻したサラディンは、抵抗を受けることなく街に入り (むしろ諸手を上げて歓迎された)、金銭や武装、補給を受け取った。数にまさる十字軍とエジプト軍の侵攻に対し、賢明なアサドは大軍とともに撤退し、サラディンとわずかな兵力だけが街を守るために残された。サラディンはその任を見事に遂行した。

しかし間もなく状況は錯綜してくる。アサドは崩壊しつつあるファーティマ朝のカリフに仕えるエジプトの主席大臣シャワールと三つ巴の権力闘争に巻き込まれ、シャワールは十字軍のエルサレム王アマルリック1世に援助を要請した。1169年にシャワールは暗殺され (サラディンによるとされる)、同じ年の後半にアサド・アッディーン・シール・クーフも死去した。ヌールッディーンはアサドの後継者を選んだが (サラディンではなかった)、ファーティマ朝のカリフはサラディンをエジプトの主席大臣に指名した。ちなみにその理由は判明していない。それから数ヶ月、サラディンは怒ったエジプトの役人による暗殺の企てを退け、ファーティマ朝の大軍を用いて徹底的に反乱を鎮圧した。きわめて徹底的していたため、その後エジプトでは二度と反乱に遭うことはなかったほどである。

アラブの歴史家によれば、1171年6月にサラディンは、ヌールッディーンからエジプトにアッバース朝のカリフを復権させるように「命令」された。アル・アーディドが亡くなり、彼に仕えた役人を何名か処刑、または暗殺させると、サラディンのエジプト支配は堅固なものとなった。その成功に次の障害が現れるまで、サラディンはテンプル騎士団を出し抜いてガザを略奪し、モースルのアカバ湾での輸送を妨害していたエイラットの十字軍の城を占領し、ヌビア人の侵略をくじいてヌビアの都市イブリムを奪った。略奪品の一部をダマスカスのヌールッディーンへの贈り物とし (その中にはサラディンの馬の目利きとしての能力を活かした「最高級の血統のロバ」もあった)、十字軍の土地を略奪する機会も得た。さらにはイエメンを占領し、そこに残る不信心者たちを追い出した。

1174年5月にヌールッディーンが死去すると、サラディンはすぐさまエジプトでアイユーブ朝の樹立を宣言した。当然、スルタンは自分であった。有力な王族の一派が、ヌールッディーンの11歳の息子をカリフの後継者として宣言していたが、サラディンはシリアでの混乱と、それによる異教徒の繁栄を恐れた。ここでサラディンは困難な選択を迫られる。コーランで禁じられているにもかかわらず、若きアッサリフ・イスマイルからシリアを奪うか、ありそうもない侵攻の機会を待つかだ。アラーの御心のままに、アッサリフはすべてのライバルを排除しようとする野心家の叔父によってアレッポへと誘拐され、ダマスカスの王族たちはサラディンに助力を請わざるを得なくなった。

運命の力が働いていた。サラディンは700名の精鋭を連れて砂漠を急ぎ渡り、王族やベドウィンの部族と合流し、ダマスカスに入ると市民から喝采をもって迎えられた (彼らとて愚かではない)。兄弟の1人にその地を任せ、サラディンはすぐに前カリフに忠実だった他の都市を征服した。翌年は多くのことが起こり、サラディンは数回の暗殺をどうにか回避した (何回かの暗殺は「アサシン」と呼ばれるイスマイル派によるものだった)。最終的に、生き残っていたシリアの王族は、そうすることで得られる利益を理解し、サラディンをエジプトだけでなくシリアのスルタンであると宣言した。「アサシン」や国内の他の敵対勢力は、聖地からヨーロッパ人を追い出すことこそが正しいと認識し、彼らと和解したサラディンはイスラム教徒軍勢を整えた。

サラディンのキリスト教徒との激しい戦いは、西暦1193年に彼が死去するまでつづいた。アイユーブ朝は連戦連勝し、十字軍側であるエルサレム王国の大半 (1187年には聖都そのもの) を占領したため、サラディンの悪名はヨーロッパ中に轟いた。その結果として起こった第三回十字軍には、イングランドのチャード獅子心王、フランスのフィリップ2世、赤髭王フリードリヒ1世などが参加し、戦闘よりも虐殺が目立った。1191年9月には、十字軍は武装した兵は約2000人、戦闘可能な騎士は50人まで減少していた。リチャードとサラディンはついに講和に至り、1192年にラムラ条約を結んだ。これによってエルサレムはイスラム教徒の支配下にとどめおかれたが、キリスト教徒の巡礼は受け入れることになった。この条約は、サラディンの遺産で最も長くつづくものとなった。

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