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織田信長/日本

目次

基本情報

外見プロフィール
名前織田信長
文明日本
キャッチコピー日出ずる国、日本の伝説的な大名である織田信長よ。
出生天文3年5月12日
(先発グレゴリオ暦1534年7月3日)
指導者特性文化力上限の上昇10~35
地上軍のHP上昇0.5~3%
紹介
あなたの進む道に華々しい祝福があらんことを。島国の日本は数え切れないほどの内戦を経たものの、強力な軍事力で統一を成し遂げようと模索しました。これはあなたが優れた洞察力と指導力で、ばらばらになっていた日本に統一という道を示したためです。
織田信長よ、日ノ本の民にあなたの祝福を分け与え、国に繁栄をもたらしてください。

ゲームにおいて

歴史において

シヴィロペディア引用

生涯

織田信長は16世紀の日本で活躍した将軍である。
才能ある武将であると同時に狡猾な政治家–さらに新しい技術をいち早く取り入れた人物–であった信長は戦と背信で道を切り拓き、封建制にあった日本のほぼ半分を支配した。
豊臣秀吉と徳川家康という2人の家臣は、信長の死後、約100年ぶりに再び日本を統一するという役目を果たした。

若年期

織田信長は、戦国時代の真っ只中である紀元1534年に生まれた。
この時代、封建制の日本では国土を藩に分割し、それぞれを有力な大名が支配していた。
その一方で頼りない将軍が、さらに頼りない天皇の名の下に日本を統治していたのである。
戦国時代は、地方の当主が大名を滅ぼし、家臣が当主を滅ぼし、家系が下位の者たち同士で優位を競い合うような、既存の秩序を完全に覆す時代であった。
日本の歴史の中でも、とりわけ血なまぐさい時代だったのである。
そして貴族には、生き残るための賢さと権力、さらに運が必要不可欠であった。

信長は、小さくて目立たない尾張藩の裕福な大名家に生まれた。
1551年に父の死を受けて、信長は父の地位と財産、そして臣下を相続した。
当時まだ17歳で、誰から見てもやんちゃで手に負えない子供だったという。
言い伝えによると、信長が父の葬式の席であまりに酷い振る舞いをしたため、友人や家臣は屈辱感から切腹を図ったとされる。
家臣の死に衝撃を受けて目を覚ました信長は、自分の地位と責任について真剣に考えるようになった。

権力の掌握

その後10年以上、信長は目の前に立ちはだかる者は全て、体系的に合併するか滅ぼすかを選びながら尾張藩の勢力拡大を図った。
勝利を収めるために信長がかかわった一連の同盟、戦、裏切り、そして殺害は目が回るほど複雑で、南アメリカの「テレノベラ」(メロドラマ)の入り組んだ筋書きに匹敵するものである。
以下にその顛末を述べる。


信長の父が亡くなった時、織田家は多くの派閥に分裂した。
信長を正当な家督として支持する者もいれば、一方で(兄より落ち着きのある)信長の弟、信行を支持する者もいた。
またその一方で、信長の叔父である信友は、力を持たない尾張藩の守護、斯波義統の代理という自身の地位を利用して、織田家の主導権を手に入れようとしていた。
しかし信友は、義統がひそかに信長を支持していることを知ると、信友は斯波義統を殺害したのである。
その間、信長は叔父である織田信光に(尾張の守護、斯波を殺害したばかりの)信友を襲撃するよう説得し、信長と叔父の信光は、清州城で信友を襲い、殺害した。


信友を倒すことで、信長は尾張藩の新たな守護(斯波義統の後継ぎ)、斯波義銀を支配する力を持つようになった。
信長は斯波義統を利用して、同じく斯波に忠誠を誓った今川家、吉良家と同盟関係を結ぶ。


その後信長は、反乱を起こした息子の斎藤義龍に対抗する斎藤道三に加勢するため、蓑藩に軍を出兵したがうまくいかず、道三は討たれてしまった。


1556年、信長の弟、信行(覚えてる?)は、柴田勝家、林秀貞の力を借りて反乱を起こしたが、稲生の戦いで信長に敗れた。
信長は珍しく情けをかけ、弟とその仲間を赦免した。
信行は直後に再び反乱を企てて信長に仕返しをしようとするも、かつての仲間である柴田勝家に裏切られ、信長に計画を密告されてしまう。
信長はこれを知ると、直ちに弟を殺害した。


と、そんなところである。
1559年までに信長は、尾張藩主の座を狙う者を全て倒し、晴れてその地位に就いたが、斯波義銀については守護の地位に留め、自分の意のままに操れるようにした(ただし義銀が吉良家、今川家とともに陰謀を企てていたと知った時点で、信長は義銀の地位を剥奪した)。

さらなる侵攻

尾張藩を手中に収めると、信長は全国に権力を拡大し始めた。
1560年、弱体化した足利将軍を失脚させるべく、ばかばかしいほど小規模な軍を率いて、京都へ向かう途中の明らかに優勢な敵軍と戦った。
そこで、全く予想もしなかった衝撃的な勝利を収めたのである。

信長軍を勝利へと導くカギとなったのは、ヨーロッパの貿易商によって持ち込まれ、当時の日本ではまだ珍しかった新しい武器をいち早く導入したことである。
信長は、完全な形の銃士隊を最初に組織した大名の1人として、遅れを取る敵に対し非常に優勢であった。
彼は天性の支配者でもあり、尾張の農業や商業で得た富を最大限に活用して戦いに備えた。

1568年、信長は京都に上洛し、同盟関係にある足利義昭を見せかけの将軍として擁立した。
1573年までにこの2人の関係は破綻し、信長は義昭を失脚させて長かった足利の時代は終わりを告げたのである。

信長は、政治的な力を持つ様々な仏教の宗派を攻撃することによって、日本統一を確固たるものとした。
僧侶たちは信じられないほど頑なにこれを拒み、中には10年以上にわたり抵抗を続けた者もいた。
信長は略奪した宗教的財産をあちこちの武士や貴族に分配し、彼らの忠誠心を高めた。
信長はヨーロッパから続々と日本にやってくるイエスズ会宣教師(おそらく彼らを脅かす政治的圧力がなかったからであろう)と親交があったが、キリスト教に改宗することはなかった。

信長の死

1582年までに、信長は中部地方における支配権を確立し、その権力を西側へ拡大しようとしていた。
しかしながら遠征中に、本能寺で部下に裏切られた信長は切腹を強いられて自害した。
そのわずか11日後、信長を殺害した犯人は信長の忠実な家臣に倒されてしまう。
そしてその家臣が、このまま天下統一を成し遂げる第一歩を巧みに踏み出すのである。

歴史の審判

織田信長は日本の歴史に残る三大指導者の1人であると考えられることが多い。
残る2人は彼の家臣だった豊臣秀吉と徳川家康である。
1590年に秀吉が日本全土を征服し、秀吉の死後は徳川家康が実権を握り、その後数百年もの間日本を統治した徳川幕府を作った。

この3人が近代国家としての日本を創り出したのである。

信長は、残酷な時代に生きた残酷な人間であった。
しかし天下統一に一役買うことで、それまで100年以上も横行していた無慈悲な戦いに終止符を打ったのである。

擬似事実

信長は弓術をこよなく愛した人物である。

事実、戦の際に弓を引きやすいよう袖のない着物を仕立てさせた。

信長は髪型について敵から批判を受けることがよくあった。
というのも、彼が君主にふさわしく頭頂部を剃り落した伝統的な「ちょんまげ」ではなく、「身分の低い牢人」(主家を持たない侍)の髪型を選んでいたからである。

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