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ガンジー/インド

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基本情報

外見プロフィール
名前ガンジー
文明インド
キャッチコピー偉大なる精神でインドを率いるガンジーよ。
出生1869年10月2日
指導者特性研究時の必要資源減少
効果:3~10%
騎兵の防御力上昇
効果:1~5%
紹介
あなたは1万年の歴史を誇るインドを平和に導いた指導者であられます。
帝国の脅威に立ち向かい、平和のために尽力したあなたのことを、インドの民は今も待ちわびております。
あなたの慈悲深い魂で暴力を退け、インドが信仰心と情熱に満ちた国になるようお導きください。
あなたの指導力があれば民の潜在能力は開花し、インドが世界の中心地になることでしょう。

ゲームにおいて

歴史において

モハンダス・カラムチャンド・ガンジー(1869年 – 1948年)、通称マハトマ・ガンジーは、インドの独立運動指導者であり、非暴力・非協力の原則を持ってイギリス植民地支配に抵抗しました。彼は「マハトマ」という尊称で呼ばれ、インドの独立運動で非常に重要な役割を果たし、その哲学と手法は世界中で尊敬されています。

ガンジーは、1869年にインドのポルバンダルで生まれました。彼はロンドンで法学を学び、その後南アフリカでインド人弁護士として働くようになりました。南アフリカでの経験が彼の政治活動に大きな影響を与え、人種差別や不平等に対する闘いが始まりました。

1915年にインドに戻った後、ガンジーはインド国民会議に参加し、インドの独立運動に従事しました。彼は非暴力とアヒンサー(不殺生)の原則を持ち、イギリスによる植民地支配に対する抵抗を行いました。彼が組織した運動には、「塩の行進」や「スワデーシー運動」、「非協力運動」などが含まれています。

塩の行進は、1930年に行われた抗議行動で、イギリスが課した塩の税に反対しました。ガンジーは数千人の支持者とともに、インドの海岸から240マイル(約385キロメートル)の道のりを歩き、インド洋で塩を作りました。これは、イギリスによる塩の独占と税に対する象徴的な抗議行動でした。

1947年、ガンジーの努力の結果、インドはイギリスから独立を勝ち取りましたが、インドとパキスタンの分離独立による宗教的な対立に悲嘆しました。残念ながら、ガンジーは1948年に過激なヒンドゥー教徒によって暗殺されました。

ガンジーの非暴力哲学は、後世の指導者たちに大きな影響を与えました。マーティン・ルーサー・キング・ジュニアやネルソン・マンデラは、彼の理念を参考にして自身の闘いを進めていました。彼らは、人権や平等を求める運動を行う際に、ガンジーの非暴力抵抗の手法を採用しました。

また、ガンジーの思想は、現代の平和運動や社会変革運動にも大きな影響を与えています。多くの活動家たちが、彼の非暴力・平和的手法を取り入れて、環境保護、人権擁護、民主主義推進など、様々な問題に取り組んでいます。

ガンジーは、民衆を巻き込む非暴力運動の重要性を説いていました。彼は、普遍的な真理(サットヤグラハ)を信じ、それを実践することで、不当な権力や抑圧に対して勝利することができると主張していました。

彼の哲学は、暴力を用いずに社会や政治の変革を実現することが可能であることを示しています。今日でも、多くの人々がガンジーの非暴力哲学に触発され、平和や正義のために活動を続けています。そのため、彼は「インドの父」として、また世界中の平和活動家の象徴として、記憶されています。

civ6シヴィロペディアより

歴史的背景

祖国のバープー――グジャラート語で「父」や「師父」を意味する言葉である――とまで呼ばれる者は少なく、多くの血を流さずにその名を得た者はさらに少ない。しかし、モハンダス・ガンジー――より知られている呼び名はマハトマ (サンスクリット語で「偉大な魂」の意) ・ガンジー――は例外である。ガンジーはサティヤーグラハ (ガンジーの造語。直訳すれば「真理の力」)、すなわち民衆の不服従によって圧制に抵抗するという戦い方を説き、祖国に独立をもたらしたのだ。

ガンジーは、イギリス支配下にあったインド北部で商人カーストの子として生まれた。ポルバンダルという小さな国の高官の4番目の妻の息子だったガンジーは、人知れず善行を重ねるような成熟した少年… ではなかった。ガンジーが子供の頃に気に入っていた遊びの1つは「犬の耳をひねる」ことだったと、ガンジーの姉はかつて記している。少年時代のガンジーは「メルクリウス (ローマ神話の俊足の神) のように落ち着きがなく… いつも遊んでいるか、あちこちうろつき回っているかのどちらかだった」のだという。

ガンジーは13歳の時に14歳の少女と結婚させられた。この時代、この地域にあっては当たり前の慣習だったが、ガンジーにとっては愉快な体験ではなかったらしく、後年、彼はこれについて「おぞましい児童婚の慣習」と述べている。しかし結婚そのものをないがしろにする気はなかったようで、1885年、15歳のガンジーは妻との間に子供を1人もうけた。この子は短命だったが、後にはさらに4人の子――すべて男児だった――が生まれている。おぞましい慣習も、夫としての本分をまっとうする足かせにはならなかったようだ。

結婚にともない、ガンジーは中等教育を1年間休学しなければならなくなった。しかしどのみち、ガンジーはひどく内気なうえに学業成績も並程度であり、通っていたラージコートの学校でも優等生とは言えなかった。彼の大学入学試験の最終評価には、次のような記述がある。「英語は良、算術は可、地理には弱く、品行方正だが悪筆」。このような学生に法律家以外の道があっただろうか (少なくとも当時のインドでは、弁護士に最も必要なのは学力より弁舌の能力だったのだ)? 1888年、ガンジーはインドを離れ、弁護士となるためにロンドンに留学した。

ガンジーの父親が亡くなって間もない頃だったので母親は留学に反対したが、酒色と肉を断つとガンジーが誓ったことでようやく賛成が得られた。ガンジーの所属するカーストでは海を旅することは不浄だと考えられていたため、留学に際してガンジーは追放を宣告されている。1891年6月、司法試験に合格したガンジーはインドへ戻る船に乗った。そしてボンベイで開業を試みるが、無残に失敗する。伝えられるところによると、ガンジーは証人に厳しく尋問をするのを嫌がったそうである。依頼人がほとんどいなかったのも無理はない。その後、24歳のとき、ガンジーはインド企業のダダ・アブドラ商会と1年間の契約を結び、無秩序に広がる大英帝国の片隅にある南アフリカのナタールで、会社の代理人として活動することになった。

ガンジーは南アフリカで弁護士としてそれなりの成功を収める一方で、人種偏見と差別に苦しめられた。それからの20年間をガンジーは、少数民族の権利を守るため、南アフリカでの闘いに費やすことになる。もっとも、最近発見された書簡によると、アフリカ人の境遇にはあまり同情していなかったようだ。ガンジーが受動的抵抗という哲学を育み、人に教えるようになったのはこの頃からであった。ガンジーはいわゆる「黒人法」――白人以外のすべての人種に政府への指紋登録を義務づける法律に反対し、複数回に渡って投獄された。キリスト教徒以外の結婚は合法的なものとして認めないと南アフリカ政府が決定したときも、ガンジーは大規模な非暴力の抵抗運動を組織し、これを率いた。ガンジーの怒りの源となったのは――少なくとも部分的には――南アフリカに来たばかりの頃に鉄道の一等客車から追い出された経験であり、駅馬車の車内席を白人に譲らなかったために御者に暴行を加えられた経験であった。

粘り強い抵抗運動をつづける一方でガンジーは、イギリスが戦争を起こすたびに大英帝国の愛国者のごとき振る舞いを見せもした。ボーア戦争では、最前線で衛生兵や担架兵を務める1100人のインド人志願兵を組織し、自らも戦場に赴いている。この戦いにおける貢献と犠牲を認められ、ガンジーほか37名には従軍記章が授与された。1906年、イギリスは今度はズールー族との戦争をはじめ、ガンジーは再び担架兵の志願者を集めた (生き残った者には、南アフリカの市民権を求めることが「許可される」ことになっていた)。この戦争を自分の目でつぶさに見たガンジーは、強大なイギリス軍に打ち勝つには非暴力的な方法によるほか望みはないと確信した… 同時に、それをもってしても勝てないかもしれないということも理解した。

1915年にガンジーはインドに戻り、そしてあっという間にインドの支配階層の者たちのほとんどすべてを敵に回した。イギリスの行政官はガンジーを敵視した。母国であるはずのインドで英語を話さなければならないのは屈辱だとガンジーが語ったためだった。インドの貴族はガンジーを敵視した。ガンジーが彼らの華美な暮らしぶりを咎め、その富や宝石は貧しい民のものであり、あなたがたはそれを預かっているだけなのだと言ったためだった。こうしてガンジーの、イギリスの支配から祖国を解放するための長い闘いがはじまったのである。ガンジーは圧制者たちに対してはその面目を失わせようとし、虐げられた者たちに対しては犠牲を覚悟することを求めた。それから30年間、ガンジーは疲れという言葉を知らないかのようにインド人に消極的抵抗を説き、ストライキを起こし、デモを起こし、またストライキを起こし、またデモを起こし、動けなくなるまで断食し、数えきれないほどの鞭打ちに耐え、何年もの時間を獄中で過ごした。

大きな壁に何度もぶつかり、長年に渡って苦労を重ねながらも、ガンジーは粘り強く権力者と闘いつづけた。1946年、経済破綻寸前の状態となり軍も消耗していたイギリスは、ついにインドから手を引くことを受け入れる。しかし同時にイギリスは、植民地を2つに分割してそれぞれをヒンドゥー教徒とイスラム教徒に割り当てることも決定した。ガンジーはこれに激しく反対したが、およそ1500万の人々が「正しい」宗教の側に行こうと先を争って移動をはじめたため、宗教的対立による暴力の嵐が巻き起こった。インドでは多くのイスラム教徒が虐殺され、パキスタンではヒンドゥー教徒に同じ運命が待ちうけていた。

新しい2つの国は大混乱に陥った。ガンジーは断食をはじめ、暴動が治まるまで食事をすることを拒んだ。驚くべきことに、この行為には力があった。双方の国と宗教の代表が殺戮をやめることを約束し、ガンジーに断食を終えるよう頼んだのだ。ガンジーはそれを聞き入れ、何百万もの人々が胸をなでおろした。だが皮肉なことにその12日後、ヒンドゥー教徒の過激派民族主義者ナートゥーラーム・ゴードセーの手によって、モハンダス・ガンジーはビルラー邸の庭で暗殺された。

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