MENU

クレオパトラ

最後のファラオ

クレオパトラ

大将軍エジプトBC69~BC30

古代エジプト、プトレマイオス朝の女王であり、最後のファラオ。テア・ネオテラという別称を持っている。
美女の代名詞として知られているが、単に容姿だけでなく優れた知性を持ち機知に富んでいた彼女は、危機をチャンスに変えて自分の野心を実現させた政治家でもあった。
9つ以上の言語を操っていたとされ、プトレマイオス朝のファラオでは唯一エジプト語が話せたため、エジプトの民たちにも人気が高かった。

目次

civ6シヴィロペディアより

歴史的背景

クレオパトラ・テア・フィロパトールは魅力的な女性として知られ (もちろん、当時と今では美の基準は違うだろうが)、その魅力が年月によって失われる前に40歳で死んだ。その短い人生の間に、クレオパトラは弟2人と結婚し、ローマで最も強い力を持つ2人と関係を持ち、そして帝国を1つ失った。波乱の人生だったと言えるだろう (こちらは現代の基準に照らし合わせても変わるまい)。

紀元前69年にプトレマイオス12世とクレオパトラ5世の間に生まれた若きクレオパトラは、自らを女神イシスの生まれ変わりと称した。政治的な正統性を強化するためのよくある主張である。プトレマイオス朝の女性たちが毒殺されたり処刑されたりといったことが何度か繰り返されたあと、クレオパトラは14歳で摂政に任命され、父の補佐役となった。4年後、紀元前51年3月に父が死ぬと、クレオパトラは10歳の弟プトレマイオス13世と結婚して共同統治者となる。だが彼女――クレオパトラ7世には、弟と権力を分かち合うつもりは毛頭なかった。

紀元前51年8月を迎える頃には、姉弟の偽りの協調は完全に崩れ去っていた。クレオパトラは公の記録からプトレマイオス13世の名を削り、新たに鋳造した硬貨には自分の顔だけを描かせた。だが、プトレマイオス13世は意外な判断力を見せて身をくらませてしまう。紀元前48年には、プトレマイオス13世の伝育官であるテオドトスと宦官ポティノスが王宮で革命を起こし、クレオパトラを放逐してプトレマイオス13世を唯一の支配者とした。クレオパトラはこれに対して反乱を起こしたが、すぐに身を隠さなければならなくなった。

一方その頃、将軍グナエウス・ポンペイウスはローマ内戦でユリウス・カエサルを敵に回すという不運に陥っていた。状況が悪くなると、ポンペイウスは保護を求めてアレキサンドリアへ逃げた。きわめて聡明とは言えない人物だったプトレマイオス13世は、ポティノスの助言に従い、カエサルに取り入ろうとポンペイウスを殺させたのだが、これは致命的な計算違いだった。2日後にアレキサンドリアに到着したカエサルは激怒し、プトレマイオス13世とポティノスを処刑すると宣言した。ポティノスはそれに対抗してエジプトの民衆を扇動した。カエサルは軍団を上陸させてアレキサンドリアを掌握すると、王朝の姉弟の不仲に仲裁役として介入した。

そして交渉がはじまったが、プトレマイオス13世の代理を務めたポティノスは、ユリウス・カエサルに対して見るからに傲慢な態度を取った。これもまた計算違いであった
(そもそも、ポティノスを代理としたのも最悪の判断だった)。一方クレオパトラはこっそり王宮に忍び込むと、52歳のカエサルを魅了した。冷静なローマの将軍と情熱的なエジプト女王の初対面は、さぞ劇的なものであったに違いない。9か月後、クレオパトラはカエサルとの間にできた男児を出産した。その9か月の間にカエサルは、姉弟の共同統治を宣言し、新たにおこなわれた結婚の誓いに立ち合い、ポティノスを処刑し、王宮への包囲攻撃をしのぎ、市内で起こった反乱を鎮圧してのける (その過程で、誤ってアレキサンドリア図書館のほとんどを消失させてしまったが)。

プトレマイオス13世は追放されることをよしとせず、軍を召集してカエサルとクレオパトラに戦いを挑んだが、ナイルの戦い (エジプト史上数多くおこなわれた、かの地における戦いの1つである) で決定的な敗北を喫し、ナイル川で溺死した。カエサルは改めてクレオパトラこそがエジプトの支配者であると宣言し、エジプトの民衆の反発を抑えるため (ちなみにこの点では、カエサルがエジプトに駐留させていた3個軍団も役に立ったのではないかと思われる)、クレオパトラを彼女の弟のプトレマイオス14世と結婚させた。こうして偽りの結婚はしたものの、クレオパトラとカエサルの熱烈な関係が冷めることはなく、間もなく2人はプトレマイオス14世とカエサリオン (カエサルの息子。その名は「小カエサル」を意味する) を連れてローマへ渡る。ローマにあるカエサルの屋敷には彼の妻カルプルニアが住んでいたので、クレオパトラとエジプトの側近たちは、カエサルが所有する郊外の屋敷の1つに身を落ち着けた。

2年間つづいた平穏な生活は、3月のイドゥスの日 (15日) に終わりを告げた。カエサルは息子のカエサリオンではなく姪の息子であるオクタウィアヌスを後継者に指名していた。権力者たち (カエサルの友人であったマルクス・アントニウスを除く) から常に目の敵にされていたクレオパトラは、ローマで暮らす見通しが立たなくなり、アレキサンドリアへ戻ることになる。それから間もなくプトレマイオス14世が死ぬと――姉の手によって殺されたという噂も立った――、クレオパトラはカエサリオンを共同統治者とし、自分の後継者に指名した。

カエサルの死後、ローマではオクタウィアヌス率いる三頭政治側とカエサルを暗殺した勢力との間で内戦が起こる。その最中に、アントニウスはエジプトを訪問した。クレオパトラはいつものきらめくような才智でもってアントニウスを迎えたので、アントニウスはすっかり彼女に魅了され、戦いを休んで紀元前41年の冬をクレオパトラと過ごすことに決めた。さぞ楽しい休暇であったに違いない。紀元前40年12月、クレオパトラはアントニウスとの間にできた双子を出産した。一方この頃クレオパトラは、兄弟姉妹のうち最後まで生き残っていた妹のアルシノエを、アントニウスに頼んで殺害させている。その後、アントニウスは戦場へ帰っていった。

4年後にアントニウスは戻った。表向きは東方でパルティア人と戦うためだったが、アントニウスはまたしてもクレオパトラにからめとられ、彼女とエジプト式の結婚をした――このときアントニウスは、オクタウィアヌスの姉とも結婚していたのだが。アントニウスがアルメニアとメディアで征服した広大な領土はエジプトに引き渡され、プトレマイオス朝の莫大な財産はすべてクレオパトラと若きカエサリオン (クレオパトラは彼を太陽神ホルスの子であり、「諸王の王」であると宣言していた)、そしてアントニウスとクレオパトラの間に生まれた双子の間で分けることになった。これはもはや、オクタウィアヌスにとって我慢の限界であった。紀元前33年、オクタウィアヌスはエジプトに戦争を仕掛けるようローマの元老院を説得した。

2年間の小競り合いを経て、アントニウスの軍勢はギリシャ西部アクティウム沖の海戦でオクタウィアヌスの軍勢と激突した。この戦いで決定的な敗北を喫したアントニウスは、自ら命を絶つ。クレオパトラはエジプト艦隊を率いて海戦に参加していたのだが、決着がつく前に逃げ出していた (これがアントニウスの死の原因となった可能性がある)。その後数か月の内にオクタウィアヌスはエジプトに攻め込んだが、抵抗はわずかだった。紀元前30年8月1日、生き残っていたアントニウスの兵士たちはクレオパトラを見捨ててアレキサンドリアの門を開き、オクタウィアヌスを迎え入れた。

王宮に (クレオパトラの墓にという説もある) 入ってきたオクタウィアヌスの兵士たちに囲まれると、クレオパトラは毒蛇に胸を噛ませて自害した。死因については異論もあり、ドクニンジンとアヘンの混合物を飲んだとも言われている。カエサリオンは捕らえられて処刑され、エジプトはローマ帝国に吸収された。オクタウィアヌスはローマに戻ってやがて皇帝となり、クレオパトラは死してやがて伝説となった。

  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次